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zoom RSS 倭の五王 を読む

<<   作成日時 : 2018/05/18 16:55  

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 倭の五王とは、五世紀に中国の南宋に朝貢した、五人の倭王のことである。
 
 倭(わ)とはもちろん、この日本のこと。

 五人は早い方から「讃・珍・済・興・武」という名前で、苗字は全員「倭」を名乗ったらしい。

 この頃の日本は、いわゆる古墳時代。
 倭の五王が朝貢した期間は、百舌鳥古墳群や古市古墳群等の巨大前方後円墳が造営された年代と合致する。

 そうなると、古墳の被葬者が倭の五王なのでは、と単純に繋げたくなるが、話はそう簡単ではないようだ。 

 この五人は、誰なのか。
 なぜ南宋に朝貢したのか。


倭の五王 - 王位継承と五世紀の東アジア (中公新書)
中央公論新社
河内 春人


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 本書は、四世紀の朝鮮半島の状況から語り起こし、五世紀になって讃が使者を送ることになった背景を、中国の史書を引用しながら説明していく。

 なぜ朝貢したのか、の答えは、たぶん高句麗や百済と対等の立場になりたかったからだろう。
 高句麗と百済は、南宋の前、東晋の時代から冊封を受け、それぞれ官爵を貰っていた。
 各国の王の官爵を比べると、一番格の高いのが高句麗で、“高句麗>百済>倭”の順となってる。
 これは実際の国力もさることながら、南宋にとっての重要度が反映されているようだ。もちろん、百済と倭にとっては高句麗は仮想敵国ナンバーワンであるため、讃以後の倭王はもっと上の官爵を欲しいとお願いしている。

 讃をはじめとする五人はみな「倭」姓を名乗ったが、それぞれの血縁関係については不明な点が多く、権力の継承がどのようなものだったかもはっきりしない。
 副題にあるように、本書にはそれについての考察もたくさんあるが、長くなるのでここでは割愛。


 さて、この五王とは日本史上の誰なのか。

 倭の五王は朝貢するにあたり、自らの名前を中国風の「苗字一字・名前一字」とした。高句麗と百済も、実際の姓名とは別にこの二字名を名乗っていたため、それを真似したものと考えられる。
 また高句麗と百済では、名前の一字は本名の一部を採用しており、倭の五王もおそらく「讃」や「珍」が名前(この当時は日本語の発音を漢字であらわした当て字)の一部である可能性が高い。

 ここで大問題。
 現在知られている古墳の被葬者(=天皇名)は、生前の名前ではない。
 漢風諡号、和風諡号と色々あるが、どれも「死後のおくり名」なのだ。
 生前彼らがどのような名前を持っていたかは、ほとんどの天皇についてわかっていない。

 従って、従来の研究では、主に五人の続柄を当時の天皇家の系図にあてはめ、讃と珍は説が分かれるものの、済・興・武はそれぞれ允恭・安康・雄略とみなすのが通説のようで、日本史の教科書にもそう載っていた。

 ところで、天皇家の系図は、八世紀初頭に完成した古事記及び日本書紀が元になっている。
 今のところ、この二書より古い文献は存在せず、八世紀以前の研究はすべてこの二書を元に行われてきた。

 ところが、倭の五王の時代は五世紀、二書の成立のざっと300年以上前の話だ。

 現代の日本人で、300年前の祖先を知っている人は、どれほどいるだろうか。
 もちろん京都の老舗や地方の旧家では系図が残され、かなり昔までさかのぼることができるだろう。
 しかし、直系の先祖はわかるとしても、その先祖の妻の家系はほとんど記されていないはずだ。
 妻の実家も名家であれば系図があるだろうが、その家に男子の跡継ぎがなく断絶していれば、「家」自体が残らない。
 それと同じ状況が、継体天皇(六世紀初頭)のとき天皇家に起きた。

 倭の五王の時代の系図にある天皇は、古事記及び日本書紀が編纂された当時の天皇家の、直接の先祖ではない。
 彼らの直系の先祖は、越前から出てきた継体天皇で、允恭や安康といった天皇は、継体天皇の妻(允恭の甥の孫)の先祖、つまり史書成立時の奈良朝の天皇たちにとっては女系の先祖であった。
 継体天皇の五代前の祖先と允恭天皇の二代前の先祖は同一人物(ということになっている)だから、同じ男系が跡を継いだとはいえ、妻の実家の、それも男子が絶えてしまった一族の系図がいつまでも伝承されるとは思えない。
 そんなわけで、倭の五王時代の系図には、後世の脚色がかなり入っているというのが本当のところらしい。

 つまり、当時巨大古墳を造営できるだけの「権力者」がいて、おそらくその人物が五王の誰かなのだろうが、古墳の被葬者もはっきりしなければ元になった系図自体も怪しいという、まるで有力証拠なしの状況なのだ。

 結論からすると、不確かな系図を頼りに五王探しをしても意味がない、ということだ。
 中国の史書には名前があるのに、肝心の日本では記録がない、というのは何とももどかしい。
 もちろん、今後考古学的資料が新たに発見されれば新展開があるかもしれないが、今の段階では「わからない」というのが倭の五王の真実であった。

 はっきり言って、倭の五王の正体を知りたいがために本書を買ったのに、ガッカリもいいとこであった。
 とはいえ、説の展開方法はきわめて理論的であり、読んで損したということはない。
 わからないということがわかる、というのは、学問においては重要なのだ。

 それに、本書を読むと倭国の輪郭が見えてくる。
 朝鮮半島に対して優位な意識を持ち(その根拠は不明)、すきあらば出兵し、大国(当時は中国、今はアメリカ)の笠を着たがるというのは、五世紀以来変わらぬこの国の姿なんだと改めて思った次第。


 戦前は、「日本が中国に貢物を持っていくなどありえない」として、五王の研究はタブーだったんだそうだ。
 また、四五世紀の日本が朝鮮半島に軍事力を展開していたというのも私は知らなかったが、韓国併合時には「昔から日本は朝鮮半島を支配下に置いていた」という理屈づけのために、さかんに喧伝されていたらしい。
 戦後教育をあれこれ言う人たちがいるが、「忖度」なしに自由に考え自由にものが言えるというのは、やはり素晴らしいことなのだと思う。お偉いさんたちは、そうでもないみたいだけど(喝!)。







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