十字軍物語 を読む



 十字軍、と聞いて、日本人は何を思い浮かべるだろうか。
 赤十字に白十字?
 戦争ゲーム?
 ライトノベルにもそんなのがあったような。


十字軍物語 第一巻: 神がそれを望んでおられる (新潮文庫)
新潮社
2018-12-22
塩野 七生


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 作者が序文で書いているように、多くの日本人にとって十字軍は「聞いたことがあるけどよく知らない、あるいはまったく知らない」世界史用語だろう。
 赤十字と混同して、医者とナースの部隊か?と思ったりして。
 
 というわけで、おさらい。


  ♢  ♢  ♢


 ときはヨーロッパの中世(日本はその頃平安~鎌倉時代)。
 ローマ法王ウルバン二世の呼びかけに答えた西欧の諸侯が、大挙して中東に押しかけ、イスラム勢力の支配下にあったエルサレムを武力で「解放」し、中近東にキリスト教国家を建設したのが十字軍の始まり(第一次)。

 以下、第八次まで約200年間の出来事を列挙。


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第二次:
 聖ベルナールの呼びかけにより、神聖ローマ帝国皇帝コンラッドとフランス王ルイ七世が出陣。
 ダマスカスを目標に軍を進めるが、イスラム側の大軍を前にさっさと退散。

 この後、エルサレムとその周辺一帯がイスラムに奪回される。

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第三次:
 エルサレムを取り戻すべく、神聖ローマ帝国皇帝バルバロッサ、フランス王フィリップ二世、イギリス王リチャード一世(獅子心王)が出陣。
 バルバロッサは行軍途中にトルコで死亡、フィリップは中近東に三ヶ月いただけで帰国したため、残ったリチャード獅子心王と、イスラム側のサラディンのガチンコ対決。
 エルサレムの再復はならなかったが、海港都市は十字軍側に戻り、キリスト教徒の巡礼の安全も保障された。

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第四次:
 第一次と同じく、封建領主である「諸侯」と都市国家ヴェネツィアによる十字軍。
 イスラム相手どころか同じキリスト教徒のビザンチン帝国を攻め、イスタンブールにラテン帝国を建国。

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第五次:
 第四次にあきれたローマ法王ホノリウス三世が、エルサレム王のお尻をたたいてエジプト(当時のアイユーブ朝の本拠地)を攻撃させるも、十字軍内部の意見の相違や洪水、疫病などにより退散。

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第六次:
 これもローマ法王グレゴリウス九世の要請を断り切れなかった神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ二世が、自前の軍勢を率いて中近東に向かい、イスラム側と交渉の末、エルサレムの無血開城をかちとる。
 これに対し、「エルサレムは血を流して得るべき」という聖職者からの反発が起き、フリードリヒ二世は破門。

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第七次:
 イスラム側を叩きのめさないと気のすまないローマ法王インノケンティウス四世は、今度はフランス王ルイ九世に出陣を要請。
 ルイはエジプトを攻撃するが、撤退に失敗し軍勢丸ごと捕虜にされた。
 身代金を払い、ルイは無事帰国。

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第八次:
 懲りないルイは、今度はフランスの真南にあたるチュニジアに出陣するが、現地で疫病により死亡し、軍勢は一ヶ月で撤退。

 その約20年後、キリスト教側に残された最後の都市アッコンが陥落、中近東の十字軍国家は消滅。

  ♢  ♢  ♢


 とまあ、こうして列挙すると、カトリックというのはバカバカしいことに躍起になっていたものだ、と思わずにいられない。
 そして日本人の少なくない数の人々は、ヨーロッパのそれも宗教を旗印にした戦争の話を読んで、何が面白いのか、何の役に立つのかと思うだろう。
 しかしこの国も、多少ニュアンスは違うものの、「アジアの欧米からの解放」「国家神道」を掲げて先の大戦を戦ったのではなかったか。
 そして戦争というのは、精神論や神頼みでは勝てないということ、無為無策な指揮官に率いられた兵士は無駄死にすることを学んだのではなかったか。
 十字軍も同じように異国に出陣し、同じようにたくさんの血を流し、異国に築いたものを何もかも失って終わる。
 つまり、洋の東西を問わず、人間は同じことを繰り返すのだ。
 そこに歴史を知る意味があるのだと思う。



 とはいえヨーロッパの人々は、二百年にわたる十字軍運動が無に帰したのは、イスラム側の軍事力に負けたのではなく、「神がそう望んだから」であり、自分たちの非力あるいは無策を反省することもなかったようだ。

 そうでなければ、中世騎士道物語のように、聖地に向かう騎士との悲恋やサラディンとの戦いなど、庶民が喜ぶ演目が人気を呼ぶはずがない。
 上から下まで、十字軍と聞いて胸を熱くし、自分たちに都合の良い部分だけ取り出して喜び、さも素晴らしいイベントであったかのように思い込んだのだ。

 その結果、数百年後のとある大国のあまり教養のない指導者も、テロの報復に「これは現代の十字軍だ!」などと、「アンタ、十字軍の結果知らないの」と突っ込まれてしまうような発言をしてしまうわけだ。



 塩野七生は、欧米の研究者が囚われがちなキリスト教的価値観から自由であり、イスラム側の資料を読み込んだ、と本人が言うように、複眼的な視点から記述している。

 客観的な立場から歴史を見るというのは、歴史を立体的に捉えるためには大事な作業だと思う。
 現にアジアの近現代史は、これほど違う見方ができるのか、と思うほど近隣国と違うではないか。

 人物の描写については、筆者の主観により通説とは違う解釈がなされていることもあるが、あくまでも「読み物」であるため、「塩野七生はこのタイプの男が好きだな」と彼女の解釈を楽しめばよく、「通説と違うからこの本はよろしくない」というのは愚の骨頂である。


 ちなみに、十字軍が終わった後も、キリスト教徒はエルサレムへの聖地巡礼に行くことができた。
 それというのも、十字軍運動で力をつけたイタリア海洋都市国家が地中海を縦横に行き来していて、イスラム側と交易をするとともに巡礼を中近東まで運んでくれたし、イスラム側にとっても巡礼はお金を落としていってくれるありがたい存在だったからである。

 宗教が絡んだ争いというものは、まったく無意味であるのにやらずにいられない、というのが人間世界の現実で、敵と戦っていないときは味方同士で争うというのが、人類の歴史なのだ。
 私たちはしょせんその程度の生き物だということを知っておくのが、個人はもとより為政者にとって重要なことだろう。