辺境の甍



 多賀城(たがじょう)市は、仙台の北東約10キロに位置する。

 そこにある県立東北歴史博物館で、気になる企画展をやっていたので出かけてみた。

DSC_0078.JPG
 昨今の博物館とか美術館は、入り口までがとても遠い。
 前庭がガラーンと広い作りなのは、西洋の元々宮殿だったミュージアムを真似ているからだろうか。
 あれは馬車で乗り付ける構造だから遠くていいのであって、老若男女が徒歩で向かう現代では違うコンセプトがあっていいような気がするが。

 繰り言はさておき、本日の展覧会はこちら⇩

DSC_0080.JPG
 エ・ミ・シ、ですわ。
 いわゆる「蔑称」なわけで、東北生まれとしては微妙な気分だけど、文献にそうあるのだから仕方ない。
 主に考古学的資料から多賀城創建当時の中央政府と蝦夷の関わりを見てみよう、というのがこの企画展の趣旨であるらしい。
 東北らしい、いい着目点と思う。


 ところで、「多賀城」というのは、724年に時の中央政府が蝦夷支配のためこの地に建設した軍事拠点の名称。
 724年は、聖武天皇が即位した年だ。
 その頃、まとまった政治・軍事の拠点が必要なほど(あるいはそれを維持できるほど)中央政府は東北に進出していたのね。

 展示の内容は主に多賀城の国衙の遺物で、そこからは多賀城やその周辺の人々が「京ぶり」の文化を享受していたこと、一方で蝦夷独特の文化が連綿と受け継がれていたことなどが読み取れる。
 「まつろわぬ民」と言われた蝦夷だけど、実際には律令機構の中に多くの有力者や民が取り込まれ、共存共栄していたようだ。

 砂鉄や砂金の取れた東北では金属精錬も行われ、武器も多数出土する。
 その中に「蕨手刀(わらびてとう)」という短めの刀があるのだけど、これは持ち手の部分がちょうどわらびの頭の部分のような渦巻型になっている。
 主に東北の古墳で副葬品として出土するので、「蝦夷の刀」と呼ぶらしい。
 京の産物や唐からの舶来品とは違って、どことなく鄙の味わいがあっていい刀だ。

 「蝦夷」と銘打つ割には展示に蝦夷側の社会状況などの説明がほとんどなく、少し企画倒れな感じがしないでもない。
 圧倒的に文字資料が少ないことが研究上のハンデで、未解明の部分が多いのだろう。



 ついでに、常設展のほうも覗く。

 こちらは県全体の有史以前から二十世紀までの展示。
 企画展は「律令国家との関わり」に主眼が置かれていたが、常設展を見るとその前後の時代もよくわかり、より理解が深まる。

 常設展の目玉は、やはり「多賀城碑」のレプリカだろう。
 本物そっくりの本物の石で作られているが、あれ?本物はどこの博物館にあるの?
 ・・・と思ったら、本物は発見された場所にそのままあるらしい。

 こりゃ見に行くしかない!

 というわけで、車で博物館から少し離れた丘の上に移動。

DSC_0081.JPG
 見えている丘とその奥に広がる丘陵一帯が、多賀城の国府であったらしい。
 まわりは公園として整備途中という感じで、駐車場もあるもののそこから遺跡への道も整備されておらず、全体として閑散としている。

 適当に道を探しつつ丘を登っていくと、何やら廟のようなものが。

DSC_0084-2.JPG
 これは覆屋で、江戸時代に水戸黄門の進言により石碑を守るため作ったんだとか。

 格子の隙間から覗く。

DSC_0082.JPG
 多賀城碑、ホンモノである。
 陳腐な言い方だが、激しく感動。
 建立されたのは762年(天平宝字六年)。
 千年以上の時を越えて、天平の風が押し寄せるような、稀有な感覚に包まれる。

 博物館のレプリカを見た時、文字がずいぶんよく残っているなと思ったが、ホンモノも素人が読めるほどはっきりしている。

DSC_0085-2.JPG
 最上部に「西」とあるが、それが具体的に何を指すのかは現在でも定説がないようだ。
 一般的には西の方向、つまり奈良の京だろうと思われる。
 実際、石碑は西面して建てられているが(江戸時代に「発見」されたときに現在の場所に建てた)、おそらく奈良時代もこの向きで建てられていたのではないだろうか。

 国府には、現地在住の官人のほか、中央から派遣された高位の官人もいた。
 京からはるばる移動してきた中央官人が、この石碑に書かれた「京去一千五百里」の文字を見た時、胸に去来するのはどんな思いだったろう。

 石碑の建てられた天平宝字年間は、天皇が孝謙から淳仁に代わり、恵美押勝こと藤原仲麻呂が政界を牛耳っていた時代。
 この頃、大伴家持が万葉集を編纂し、鑑真が亡くなっている。
 石碑に書かれた碑文は、藤原恵美朝臣朝獦(あさかり)が多賀城を修造した記録であるが、この朝獦は仲麻呂の息子であり、二年後に起こる「恵美押勝の乱」で父親共々殺されている。
 この石碑を立てたことが、彼の生涯のハイライトであったと思うと、運命の非情さを感じる。

 乱の後、孝謙=称徳女帝は仲麻呂の功績を否定するのに躍起になり、この石碑も倒された、とはネットで拾った真偽不明の情報だが、彼女のその後のヒステリックな言動を見る限り、あながち嘘でもなさそうだ。
 倒されたおかげで文面が風化を免れ、江戸時代に「発見」されて以降、その状態の良さに偽作だとのうわさが絶えなかったらしい。
 文面の情報や加工の方法などから、現在ではホンモノ間違いなしとされているようだ。
 

 ところで石碑の石は花崗質砂岩(アルコース)。
 北上山地の中生界かそれより古い地層から採ったものだろうか。
 仙台近辺で見かける江戸時代以降の石碑は雄勝石(頁岩)が多いので、ちょっと珍しいなと思った。
 頁岩の表面に掘られた文字が、わずか数百年で判読不能になっているのに比べ、多賀城碑の文字の鮮やかさは驚くほどだ。
 多賀城碑を建てた人々は、加工の容易さよりも、自分たちの足跡をより長く残すことを選び、それを可能にするだけの知識と技術を持っていた。
 先人、スゴイぞ。


 石碑の向こうに国衙の「天平の甍」が見えていた時代。
 彼らも、この石碑を見て様々な感慨を抱いたことだろう。
 私たちと同じように。
 

 多賀城碑全文(クリックで拡大)⇩
DSC_0083-2.JPG



ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)